1.研究者紹介
羽生 琢哉 (Takuya Hanyu)
一般社団法人HR Buddy研究所 主任研究員
株式会社人としての器 代表取締役

2.序文(背景)
近年、多様な働き方やジョブ型雇用の推進などに伴い、「自律的なキャリア形成」を促す動きが一層強まっています。厚生労働省による副業・兼業の促進やリスキリングの推奨なども相まって、国レベルの政策でもキャリア支援施策の導入が強く要請されている状況にあります。実際、大手企業を中心に、「従業員が自分のキャリアを主体的に考えられるようにする研修」「キャリア相談の機会」「希望部署へ手を挙げられる公募制度」などの整備が進んでいます。
一方で、企業の人事担当者からは「キャリア支援施策を充実すると、むしろ従業員のキャリア意識が高まり、離職に結び付くのではないか」という懸念の声も聞こえてきます。「自律的にキャリアを考えてほしい」という目的でキャリア支援を行った結果、優秀な社員ほど外部に目を向けてしまう――このようなジレンマは、実務の現場でも広く共有されている問題です。
キャリア支援施策の充実によって従業員のコミットメントや定着率を高められる企業と、そうでない企業の違いには“ある組織的な条件”が影響している可能性があります。本記事では、その条件として「組織の器」に着目して研究した羽生・中束(2024)の発表論文に基づき、キャリア支援施策が本当に従業員の離職防止に寄与するのかについて解説します。
参考文献:羽生琢哉・中束美幸(2024)「キャリア支援施策の満足が情緒的コミットメントに及ぼす影響――組織の器の調整効果に着目して――」経営行動科学学会第27回年次大会

3.研究内容
3.1 研究の概要
本研究では、従業員のキャリア支援施策への満足度が「情緒的コミットメント(組織への愛着や一体感)」にどのような影響を与えるのかを分析しています。情緒的コミットメントは、離職の抑制要因として有力な指標とされており、従業員の満足度や組織への貢献意欲とも関連します。
先行研究(堀内・岡田, 2009; Tan, 2008など)の議論を踏まえれば、キャリア支援施策の満足はキャリア自律の促進とともに仕事への充実感を高め、また組織から支援を受けているという認識が高まることから、必ずしも離職を促すわけではないと考えることもできます。しかし、上述のとおり、企業の現場でキャリア支援施策の充実が従業員の離職に結び付くと懸念されていることを踏まえれば、キャリア支援施策によって一概に情緒的コミットメントが高まると評価していいのかに関しては、慎重になる必要があるでしょう。
そこで本研究では、キャリア支援施策が情緒的コミットメントに効果をもたらす際に鍵となる条件として、「組織が従業員をどれだけ多様な形で受け入れ、活かせるか」を表す概念である「組織の器」を考慮することにしました。つまり、キャリア支援施策が情緒的コミットメントに与える影響は、組織の器の大小によって大きく変わるのではないか、という仮説を検証しています。
3.2 「組織の器」とは
「組織の器」とは、従業員一人ひとりの違いや価値観をどの程度受け入れ、個々が最大限に活躍できる組織風土を提供しているかを表す概念です。もともと「器」という言葉は、日本語で「人の能力や才能の大きさ」を表現する際に使われます。これに着目した「人としての器」研究を通じて、「感情」「他者への態度」「自我統合」「世界の認知」という4領域が器の構成要素として明らかになりました(羽生・高橋・前野, 2022)。具体的には以下のイメージです。
・感情面で余裕がある
・対立や異質性に対して寛容である
・自分らしい信念があり、利他や社会性を重んじる
・視野が広く、長期的かつ多角的に物事を捉える
本研究では、これを組織風土に応用して概念化しました。つまり、組織全体として上記のような構成要素が体現されているほど「組織の器が大きい」と認識されます。一方で、組織内部に閉塞感や排他性が強く感じられる場合は、「組織の器が小さい」と従業員から捉えられやすくなると言えます。

3.3 主な研究成果
本研究では、大企業の正社員を対象にアンケート調査を実施し、キャリア支援施策の満足度・情緒的コミットメント・組織の器の認識の関連を分析しました。その結果、以下のような知見が得られています。
はじめに、キャリア支援施策への満足度と情緒的コミットメントの間には有意な相関関係(r=0.37)が見られました。つまり、キャリア支援施策の満足が必ずしも離職を促すわけではなく、むしろ情緒的コミットメントを高める一定の効果があるとわかりました。
ただし、上記の効果は組織の器の大きさに依存することも明らかになりました。すなわち、組織の器が大きいと認識されるほど、キャリア支援施策の効果(情緒的コミットメントへの正の影響)は強まることが示されました。すなわち、組織の器が大きければ、従業員は「この会社は自分を活かそうとしてくれている」「自分のキャリアを真剣に考えてくれる」と感じやすく、その結果、恩義感や充実感を抱きやすいと考えられます。
一方で、組織の器が小さい場合には、キャリア支援施策への満足度が高くても、情緒的コミットメントの上昇にはつながりにくいことが示されました。たとえキャリア支援施策が仕組みとして充実していても、「結局は組織の都合の制度ではないか」「キャリア意識が高まっても、この会社ではやりたいことを活かせない」と感じてしまえば、結果的に離職に結び付く可能性が残ってしまうのです。
4.実務適用
4.1 研究成果が企業に貢献するポイント
上述の研究からは、単に「キャリア研修を導入したから離職率が下がる」という単純な構造ではないことが示唆されます。そこには「組織の器」という組織風土が重要な条件として存在し、組織の器を大きくしてこそキャリア支援が活きると考えられます。したがって、企業がキャリア支援に投資するのであれば、同時に「多様な人材を受け入れ、活かす組織風土をどう育むか」を検討することが、離職防止の観点でも欠かせないと言えます。
4.2 現場で実践する際の具体的な方法
キャリア支援施策に取り組むと同時に組織の器(組織風土)を育むために、実践面では、例えば以下の観点を考慮することが有効と考えられます。
・トップによる方針・ビジョンの共有
人材育成やキャリア支援の方針・ビジョンを打ち出す企業は多くありますが、得てして形骸化しがちです。組織風土は一朝一夕には醸成されないため、多様なキャリアを尊重し、個々の強みを活かしたいというトップの考えを明確に打ち出し、定期的にメッセージを発信し続ける姿勢が求められます。
・管理職の内省機会
実際の組織風土の構築を担うのは、ほかならぬ現場の管理職です。管理職自身が器を広げ、多様な部下の価値観を理解し、それぞれの個性を活かして活躍を促すスタンスやスキルを身につける必要があり、そのためには内省や学び直しの機会が欠かせません。それによって、部下に「上司は自分のキャリア形成を本気で応援してくれる」と感じてもらえることが理想的と言えます。
・組織開発を通じた心理的安全性の向上
組織開発を通じて、チーム内での対話やフィードバックの機会を増やし、互いの多様性を認め合う習慣を根付かせることも大切です。組織内でお互いの価値観やキャリア観の違いを理解しつつ、そこから刺激を受けるとともに、「自分らしく働いても大丈夫」「自分らしくキャリアをつくっていける」という安心感を得られることで、キャリア支援施策を前向きに活用しやすくなると考えられます。
4.3 キャリア支援施策の運用プロセスへの着目
一般的なキャリア支援施策のKPI(評価指標)としては、公募制度への応募数、研修の受講率、研修後の満足度、離職率や異動後の定着率、キャリア自律度などが挙げられます。しかし、組織の器という観点からは、その運用プロセスも評価対象に含めることが大切です。
たとえば、以下の点がポイントとなります。
・経営層や管理職・リーダー層が、多様な従業員のキャリア形成を応援する姿勢を持っているか
・異動やキャリアチェンジに挑戦した従業員を応援・称賛する雰囲気があるか
・キャリア支援部門は、その後の成長度合いやキャリア充実度をレビューできているか
・施策が、さまざまな立場の従業員にとって利用しやすいものになっているか
・新たな仕事・キャリアに挑戦したい従業員に、さまざまなチャンスが開かれているか
またキャリア支援施策を「どのような方針で、どのように運用するか」という過程そのものが組織風土形成にもつながります。例えば、異動や配置転換で本人の希望をどう優先するのか、社内公募制度や自己申告制度の結果を踏まえてどのように本人に働きかけるかなど、従業員は組織の中で経験する様々な関係者との関わりを通じて、組織の器の大きさを認識することになります。したがって、キャリア支援施策のメニューをそろえて終わりではなく、その意図や運用方針を明確にして実効性を高め、組織風土改革の機運を高めていく視点も重要です。

5.結論とアドバイス
キャリア支援施策が従業員の情緒的コミットメント向上に寄与するかどうかは、組織の器(多様性を受容して活かす組織風土)の大小によって左右されます。組織の器が大きいと認識されるほど、キャリア支援が従業員のやりがいや恩義感を生み、組織への愛着を高めますが、一方で組織の器が小さいままでは、いくら施策を導入しても逆効果(不信感や離職)につながるリスクが生じてしまいます。
したがって、キャリア支援の具体的手法や施策を充実させるだけでなく、それ以前に組織風土やリーダーシップの在り方を見直すことが欠かせません。そのためには、トップメッセージの明確化、管理職教育、組織開発を通じた心理的安全性の醸成などが第一歩となるでしょう。
ただし、組織風土は一朝一夕には変わりません。施策だけが先行すれば、かえって「組織の器の小ささ」が際立つ可能性もありますし、変革期には意見衝突や調整コストが増加する場合もあります。器の成長には痛みが伴うことを理解したうえで、個人レベル・チームレベルで「異質なアイデアを排除しない」「自分らしい提案を歓迎する」姿勢を持ち、少しずつ受容の幅を広げていくことが大切になるでしょう。
そして、キャリア支援施策の導入に頼りきるのではなく、組織の器という観点から運用方針を明確にし、組織風土をつくる姿勢を持ち続ける必要があります。そのために、運用プロセスにかかわるKPIを設定して定期的に計測・フィードバックし、それを踏まえて随時方針を見直して、組織の器を少し広げていくという姿勢を持つことが重要です。
労力をかけて、痛みを乗り越えて、ようやく組織の器が育ったとき、キャリア支援施策との両輪が噛み合います。すると、社員は「キャリアは単なる自分勝手な自己満足の追求ではなく、会社や上司とともに創るもので、そして会社や社会に貢献してこそ幸福感や充実感を得られる」と捉えられるようになり、そうした段階に至れば、個人のキャリア形成や成長が組織の活性化や変革とも強く結びつくことになるでしょう。

6. 引用文献
羽生琢哉・高橋香・前野隆司 (2022). 「人としての器」の大きさに関する検討. 人材育成学会第 20 回年次大会発表論文
堀内泰利・岡田昌毅(2009). キャリア自律が組織コミットメントに与える影響. 産業・組織心理学研究, 23(1), 15-28.
Tan, F. M. (2008). Organisational Support as the Mediator of Career-Related HRM Practices and Affective Commitment: Evidence from Knowledge Workers in Malaysia. Research and Practice in Human Resource Management, 16(2), 8-24.
