天野慧
一般社団法人HR Buddy研究所
熊本大学社会科学教育部教授システム学専攻客員准教授

「急に人事異動で教育担当になったけれど、専門性がなくて自分の仕事に自信がもてない」
「先輩の見様見真似でやってきたが、このやり方が正しいのかわからない」
「前例踏襲で過去と同様の施策を続けているが、それが何の役に立っているか説明できない」
企業における人材育成の現場では、このような声をよく耳にします。こうしたお悩みの解消に役立つのが、筆者が専門とするインストラクショナルデザイン(Instructional Design:以下ID)という学問分野です。本記事では、IDの考え方の特徴と、実務で活用できる知見について紹介します。
1.インストラクショナルデザイン(ID)とは何か
IDとは、教育や研修のよりよい成果を生み出すための科学的な方法論です。企業教育の文脈では、成果はそれぞれ図1のような状態を指します。

人材育成の現場で直面する課題は、多くの場合、この3点のいずれか、あるいは組み合わせに集約されます。IDは、こうした課題に対して、経験や勘に頼るのではなく、再現性のある知見を提供してきた学問分野です。
2.IDの考え方の特徴
IDは、認知科学や教育心理学といった基礎研究の成果を土台にしながら、それらを実社会の問題解決に役立つ形で体系化してきました。そのため、理論と実務の距離が近い「実学」としての特徴を持っています。
この特徴は、研究のアプローチにも表れています。多くの教育研究は、「この教え方をすると、どのような学びが起こるのか」を明らかにすることを目的としています。これは、学習の実態を記述・分析する記述的アプローチと呼ばれます。
一方、IDが重視するのは、「狙った成果を出すには、どうすればよいのか」という問いです。IDでは、処方的アプローチと呼ばれる考え方を採用し、効果・効率・魅力といった成果を達成するために、どのような教え方や学習支援が有効かを検証し、改善を重ねていきます。
たとえば、社員の業務パフォーマンス向上を目的とした研修において、ケース・スタディという手法を採用し、その効果を測定しながら設計を見直していく、といった取り組みが行われます。このように特定の状況において、期待する成果を達成するために有効な手段(処方箋)を明らかにしていくのがIDの役割です(図2)。

3.IDモデル〜研究の知見をどう活用するか〜
IDに関する研究の成果は、IDモデルとして蓄積されています。IDモデルは、経営学におけるフレームワーク(PESTや3C、4Pなど)と同様に、複雑な問題に対して「何を考えるべきか」を整理するための思考の枠組みです。
人材育成の文脈では、目的に応じてさまざまなIDモデルが活用されます。たとえば、教育施策のゴール設定や評価方法を体系的に整理する枠組みとしては、カークパトリックの4段階評価モデル(Kirkpatrick & Kirkpatrick 2006).があります。
また、このモデルを発展させ、教育施策の費用対効果(ROI)を算出する手法として体系化したものが、ジャック・フィリップのROIモデル(Phillips et al. 2020)です。これらのモデルは、「その研修はなぜ必要なのか」「組織や事業にどのような価値をもたらすのか」といった問いに対して、上司や経営層に説明する際の強力な武器になります。
一方、教え方や学習支援の方法を検討するためのモデルとしては、IDの第一原理(Merrill 2002)やARCSモデル(ケラー 2010)が挙げられます。これらは、研修をより実務直結型にしたり、学習者の動機づけを高めたりする際に役立ちます。

ID研究では、ほかにも多くのモデルや手法が提案されています。重要なのは、それらを網羅的に知ることではなく、自分が直面している課題に応じて、適切なモデルを選び、使い分けることです。
4.人材育成担当者はなぜIDを活用すべきか
企業内の教育施策は、「以前から行ってきたから」という理由で、前例踏襲的に実施されることも少なくありません。しかし、環境や戦略が変化する中で、教育施策もまた見直しが求められています。こうした状況において、人材育成担当者がIDを活用するメリットとして、特に次の3点が挙げられます。
(1) 成果が明確になる
IDモデルを参照することで、「何のために、なぜこの教育施策を行うのか」を言語化できるようになります。研修を実施すること自体が目的化してしまうのを防ぎ、成果から逆算して施策を設計する視点を持つことができます。
(2) 自信をもって説明できるようになる
理論的な裏付けをもとに教育施策を検討することで、「なぜこの方法を採用するのか」について自信をもって説明できるようになります。これは、関係部門や上司との合意形成においても大きな助けとなります。
(3) 共通言語が生まれる
チームでIDモデルを参照することで、議論の土台となる共通言語が生まれます。目標や課題認識を揃えやすくなり、教育施策に関するコミュニケーションが円滑になります。
加えて、人材開発に関する国際団体であるATD(Association for Talent Development)は、人材・組織開発のプロフェッショナルに求められる能力モデル「Talent Development Capability Model」を策定し、IDを重要な専門領域の一つとして位置づけています。IDは、人材育成担当者が身につけておくべき世界標準のスキルセットの一つだと言えるでしょう。
5.まとめ
本記事では、インストラクショナルデザインの考え方と、実務に活かしやすい形で整理されたIDモデルについて紹介しました。IDモデルを参照することで、教育施策を感覚や前例に頼るのではなく、「組織や事業にどのようなインパクトをもたらしたいのか」という視点から設計することが可能になります。
まずは、現在担当している研修や教育施策を一つ選び、「この施策が直面している問題は何か」「どのIDモデルが使えそうか」を整理してみてください。それだけでも、教育施策の見え方は大きく変わるはずです。
前例踏襲に陥りがちな人材育成を戦略的に捉え直す視点として、日本のHR領域でインストラクショナルデザインの裾野がさらに広がっていくことを願っています。
参考文献
ケラー, J. M. 著(2010)鈴木克明(監訳)「学習意欲をデザインする:ARCSモデルによるインストラクショナルデザイン」北大路書房
Kirkpatrick, D. L., & Kirkpatrick, J. D. (2006). Evaluating Training Programs: The Four Levels (3rd ed.). Berrett-Koehler Publishers, Inc.
Merrill, M. D. (2002). First Principles of Instruction. Educational Technology Research and Development, 50(3), 43–59.
Phillips, P. P., Phillips, J. J., & Ray, R. (2020). Proving the Value of Soft Skills: Measuring Impact and Calculating ROI. Association for Talent Development.
